 |
|
歴史のあけぼの
八丈島の古代については、考古学会でも無人島であったとされていましたが、 昭和37年夏、樫立で三原中学校の生徒が磨製石器を発見したことがきっかけとなって湯浜遺跡の調査が始められました。昭和52年には、 倉輪遺跡が発見され、人骨や装飾品なども出土しました。これらの遺跡調査から次のことが明らかになりました。1.八丈島には6,500年程前 には人が住んでいたが、ずっと住み続けていたわけではない。2.遺跡の規模、神津島産の黒曜石の矢じり、本土から持ち込まれた縄文式土器、 丸木舟を作ったと思われる石器などが出てきていることから、人々は島伝いに移ってまた移り去ったか、あるいは死に絶えた。3.水が近くにあり、 木の実や山芋、魚・貝・鳥などを入手し易い場所に住居を構えていた。また、倉輪遺跡時代に犬や猪の骨が多数出土していることから、以前に持ち 込んだ猪が増え、狩りをしていたのではないかとも考えられる。
|
 |
|
鎌倉から江戸時代まで
八丈島が本土の支配下に置かれたのは、東鑑によれば鎌倉時代の1186年(文治2年)で相模の国に属したとされています。また、統治機関が置かれたのは、室町時代の1338年(延元3年)、足利氏の執事上杉憲顕が奥山伊賀と菊池治五郎を代官として在島させたのが最初とみられます。 1440年(永享12年)に神奈川の領主奥山宗林が支配したが、15世紀の末期、三浦・北条氏の勢力が入って以来、 三氏の抗争が続き1515年(永正12年)になって北条氏が勝利を得、全島を支配するに至りました。この権力争いの原因は八丈島 特産の貢租「黄八丈」にあったとみられています。 その後1604年(慶長9年)から明治にいたるまで徳川幕府の支配下が続きましたがこの間、しばしば天災地変・飢饉・悪疫に 襲われて折、島民の生活は厳しく、苦しいものでした。また、この265年間に約1,900人の流人が流れされてきました。
|
|
|
明治以降の八丈島
明治2年には相模府に属し、三根村、大賀郷村、樫立村、 中之郷村、末吉村と小島に宇津木村、鳥打村が誕生しました。明治3年に韮崎県、同4年に足柄県、同9年静岡県の所管となり、 同11年1月11日に東京府に属して以来東京都の今日に及んでいます。明治41年に八丈本島の5ヶ所に島嶼町村制が施行されたが、 小島の2ヵ村には施行されず、昭和22年10月の地方自治法施行まで名主制度が続きました。
|
 |
|
八丈町の成立
昭和29年10月1日、町村合併促進法により三根、樫立、中之郷、末吉、鳥打の各村が合併して 「八丈村」に翌30年4月1日、八丈、大賀郷、宇津木の各村が合併して「八丈町」が誕生し、今日に及んでいます。
八丈小島の引き揚
昭和29年、30年の合併により八丈町が誕生しました。そのころ小島は、生活条件は向上したものの、その 後は過疎化が激しく生活水準の格差も増し、老齢化が進み、開発計画も行き詰まり、住民もついに100名を割ってしまいました。この ような中で全員離島の話が持ちあがり、昭和41年3月全員離島を訴え、八丈町議会に請願書を提出しました。 請願を受けた町議会は、昭和41年6月20日、小島の実情調査を行い、同月22日にこれを採択しました。 請願内容を要約すると、 1.電話・水道・医療の施設がない 2.生活水準格差の拡大 3.人口過疎の傾向が甚大である 4.子弟の教育のあい路 これにより、昭和44年1月より都の援助で全員が引き揚げ無人島となりました。
(離島までの経緯) 昭和41年 3月 小島住民全員離島決意、八丈町議会に対し、 「移住促進、助成に関する請願書」提出 6月 八丈町協議会「請願」採択 7月 八丈町議会、小島引き揚げ対策協議会設置 昭和42年 9月 八丈町対都「八丈小島住民の全員離島の実施に伴う 八丈町に対する援助」 陳情 昭和43年10月 土地買収価格(在住者坪当たり93円、不在者60円) などについて、住民との協議成立 昭和44年 1月 離島開始 6月 鳥打小・中学校、宇津木小・中学校廃校 全員離島する 24世帯人口91人
| |